短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

他人頼み

 

 

 

 

 

あっという間に6月ですね、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

梅雨、というか雨が苦手です。事細かにいうと雨の日の長時間の外出が苦手です。どれだけセットしても髪の毛ぼっさぼさになるし前髪ぺったんこになるし靴下はびっちゃびちゃになるし、もう嫌!笑 そんな時は雨の音を聞きながら、読書に時間を使いつつ、気持ちが穏やかになるような温かいカフェラテでも飲もうと思います。コーヒーは飲めないんですけども、カフェラテは大好き。それでも外出しないといけない日が厄介なのですが、その時は1日の終盤バスタイムにたっぷり自分にご褒美をあげようと思います!6月の目標は、頑張った分だけ自分を甘やかすこと。頑張れ6月の私!頑張れ今日も精一杯生きようとしてる皆さん!そして頑張りすぎないで!

 

 

 

 

こんな前置きは置いといてですね、ふと思ったこと。

思いついた時に題名だけまず書いておくんですが、なんせ言いたいこと書こうとすると字数めっちゃ多くなるよねえ、なんでなんだろう無駄話しすぎかな?基本的にこのブログの書き方は自由にしておくつもりですが、もしかしたら?ひょっとすると?こういうのが多くなるような気がしております。

 

 

 

 

では。

 

 

 

 

一から十まで。そんな言葉通り、なんでも話せる人がいた。今日の学校のワンタンスープが美味しかった事、久しぶりに友達と遊ぶ約束をした事、英語の単語テストがうまくいかなかった事、友達に避けられている気がして辛い事。小さな頃は、とはいっても義務教育を卒業して少しくらいまでは、本当に些細なことまで親に話す子でした。良い事も悪い事も酸いも甘いもなんでも。小中高と、あまり平日の放課後に友達と出かけるようなタイプではなかった私にとっては、自宅のこういう時間が放課後の代名詞みたいなものでした。例え部活や用事で帰り遅くなっても、ねえねえ!!って帰ってきた瞬間切り出して(これが事実上の本当の瞬間の時もありました、よっぽど話聞いて欲しかったのねあの日の私)、沢山話を聞いてもらいました。時には泣いたし笑ったし、私にとっては、兎に角色んな感情を吐き出す事の出来る場所で。晩御飯の用意をしてるからから返事しか出来ないような母親に向かって、ただ話す事でストレスやワクワクを処理するかのように話してたな。キッチンを覗き込むような形で話が出来るカウンターなんて、いつから使おうとしてないのだろうか。

 

 

 

 

お互いの帰りが少しずつ遅くなってきた時。機嫌が悪い時に話すのを自制する癖がついた時。自分と親の違いにはっきりと気付いた時。少し困ったことを打ち明けると自分に対するアドバイスという名の文句(とこっちが勝手に捉えてるだけだとは思うが)をよく言われるようになってきた時。何度か名前に出している友達のことを「誰それ?知らないから」と冷たく言い放った時。本気で考えた将来の夢を熱く語った日の内容を忘れられ、同じ質問を繰り返してきた時。少しずつ、本当に少しずつなのかもしれないけれど、ああこの人たちに話すことではないんだと思うようになった。今思えば、あれは親離れのプロセスにおいて重要なものだったのかな。

因みにこの最後の内容は本当にショックだった、とても。私はこういう人間になりたくて、だからこういうことがしたいんだ。こういう未来の自分になれたら、私が本当にしたいことが出来るようになるんだ。なんで??と長時間いろんな質問が飛び交う中、寝る時間が削られる程長く、思いのたけを話したつもりが「子どもの夢なんて(貴方だけの親なのではないし)覚えられるわけないよ」と当たり前のように笑われてしまった。あー、ダメだ。話せないなこの人達に。せめて職業の内容とか、理由の少しぐらいは聞いていて欲しかったな。エゴなのかしら。

 

 

 

 

それでも誰かに何かしら聞いてもらわないと1人で溜め込まなきゃ!!って思いすぎて大変な大爆発を起こしてしまうからね。割と私みたいな人沢山いると思うんですけどどうでしょう。ちょっとむしゃくしゃしてる時とか、もちろん解決策とかアドバイスとか何にも求めることはない時でも話したらすっきりした!ってことありませんか?そうだよね、とか そうだったのか、とかの一言だけでいいからそういうのを猛烈に心が欲している時ありませんか?私はすんごいある。理不尽な怒られ方したとか、最近うまくいってないことが多すぎて自分のことが嫌いになる(私これがものすごく多いです)とか、褒められた事や嬉しかった事感動した事。人によっては言いたい事も言いたいレベルも言える人の線引きも様々だと思いますけれども。

 

 

 

 

私たちは共有というよりももっと自分勝手な、他人からの助けを求めてしまうのかなあと思います。言葉の力ってすごいですもんね。でも自分が自分のために使ってるだけじゃ効力の限界がきますもんね。だから、人に求めたり、あとは自分のものを相手にあげたかったりするんだと思います。

極論を言えば自給自足なんてできないしなんでも人の作ったものに支えられて生きているわけだけれど、結局1人じゃ生きていけなくて。そんなこともそんなことだけど、誰かがそこにいなくちゃ生きていけなくて。人間とはとても弱そうな生き物だなあって思います。 勿論そんなこと言わない強い人(強くなんかなくってそういう風なふりをしてる人もいるのだと思うけども)だっているのかもしれない。私はそういう人見たことはないけど。

人間ってどこか他人頼みで、他人のことに縛られて自分も誰かを縛って生きている。頼られることに幸せを感じる時点で誰かを縛ってることにもなり得る気がする。そうやって生きる事に関してはなんら悪くなくって、それをきちんと自覚して、世界と社会の中で頼り頼られなバランスを保てたらいい、かな。

 

 

 

 

今の私には悲しくなった時嬉しい時話したい時いつでも側にいてくれる人もいて、なんだかんだ上手く自分と付き合えてます。誰かが側にいても1人に感じて上手く笑えない日もあるし、孤独で寂しくて何故か眠れない夜も来るけれど、それでも明日を生きようとは思っていられます。生まれてから今まで、誰かが隣にいる事、頼る事を無条件で許してくれる人がいる事、それだけでも私の人生が限りなく恵まれているのだなぁ、と。それが幸せと感じられる程に恵まれている環境なんだなぁ、と。こういうこともしんどい時には考えられなくなるもんね。人間の心は本当にジェットコースター級の高低差です。

 

 

 

 

こんなに人のことを頼って生きてきて、自分のメンタルコントロール等様々なものを他人任せにしてきて、ああなんて自分は恵まれてしまっているんだと思いました。んー。前述の通り、恵まれているかって感じるのもその時々の私の心の持ちよう次第なので、昨日にはまた違うこと言ってたかもしれないけれど。笑 まあね、なんだかんだ言いながらもたくさんの事に囲まれて生きてきたからこそ、それがない事を想像しては怖くなってしまっていたのかな。でも怖いもんね、頼ってた人が突然いなくなるの。私は超怖いし例えそれが自分の勘違いだったとしても傷は深いだろうな。だからこそ、そうだからこそ、私のこの世界には頼れる存在が居続けて欲しいし、居続けてもらえるようにしたいし、私も誰かの世界に頼れる人として生き続けたいのね。それで、誰かの世界の頼れる存在が、行方不明になったまま捜索願を出したくても勇気がなくて出せないような状況をなくしたいわけなんです。最後めっちゃよくわかんないこと書きましたけど、表現をもっと簡素にしてサクッと伝えると、もっと人を頼れる世界に1人1人が暮らせるような心を持てるように生きたいよねって事です。

 

 

 

 

今日も私は弱くて強いので、私自身とそして私の頼れる存在に、寂しさと幸せの共有を忘れず行ってから眠りにつきたいと思います。皆さんにも、明日からの活気をちょっとだけ貰えるような、ちょっとだけいい夢が訪れますように。

 

 

 

 

幸せがなるだけ沢山、悲しみがなるだけ僅かな生活が訪れますように。

 

 

 

 

茉莉花