短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

言の葉

 

 

 

 

 

こんばんは、茉莉花です。

他人の思想を聞くという事は、その人の生きてきた世界に少しお邪魔させてもらう事だと思っていて。そういう意味合いで、私は人の話(というか、考え?ということが最適解な気がします)を聞くのが好きなんですけども。私には決して生きる機会のないような道を皆さん辿って来てるってことですから。皆さん立派な旅人ですよね。割と高コスパの有益な旅行だと思っております。まあ何が言いたいかと言いますと、人との会話を疎かにしないようにこれからも生きていたいなあと思った今日でした。特に終着点は考えていないです。お話する9割がそうです。

いきなりそれっぽいこと言いましたが、今日は全然違うことが言いたくてこれを書こうと思ってたんだった。危ない危ない。それではそろそろ本題へ参ります。

 

 

 

 

では。

 

 

 

 

 

自己内省とやらをよくやるようになってから、思考力の欠片もない自分の頭が少しずつ動き出しているのを実感しています(自己内省=自分の嫌なところをひたすら攻め続けていた頃よりは上手くなったと思うよ私)。ですが、いつでも決まって考えることは1つだけで。「どんな自分でいたいか」なんですよね。

ありのままの自分でいたい!じゃないんだよなあ。今のままでいいって思えるようになりたい!じゃないんだよなあ。私は、ありのままの自分で、このままの自分で満足してます!って一生言えないと思っていて。あ、この言葉を言う事が悪いって事じゃないんです、あくまで「私は」言えそうにないって事です。

今の自分に一番足りてなくて、一番欲しいもの。季節のようにころころと変わっていくので、今の自分が思うこと。そんな感じのものを、忘れないように少しばかり書き留めたいと思います。

 

 

 

 

「言葉をしっかりと使える人になりたい」

 

 

 

 

最近の私のテーマです。試しに、今日1日を思い返してみて下さい。SNSで呟いた、友達からのメッセージに返事をした、家族や友達と会話した、お店の店員さんに注文した。記事を読むのもそう、このブログをつらつら書くのもそう。基本的に私達が過ごすうちで、言葉に出会わない日はないと思います。私の場合、本が好きで歌も好きでこの2つは毎日のように触れていますが、これも立派な言葉の産物。そうやって、私達の日常に当たり前に存在する言葉達。言葉の使い手にも受取り手にもなる私達。当たり前のように使うからこそ、すごくぞんざいに使ってしまったなあと思うことが多々あります。

言葉とは、自分や他人とのコミュニケーションに使うことが大半を占めますよね。先程例に出した言葉の使用例もそう。ということは、少なくとも誰かには届く。他人には届かないとしても、そこにいる自分には絶対に届く。なのに、どうして人を意識しない言葉ばかりを無意識に選んでしまうのでしょう。いわゆる暴言や誹謗中傷だけではなく、胸をちくちく刺すような鈍いものからそれはいらなかったんじゃないかという付属品まで。脊髄反射で出たかのようなスピード感で出るその言葉達に、後々後悔することがあります。

このツール、どうにでも使えちゃうじゃないですか。嬉しい言葉も、悲しい言葉も苦しい言葉も全部全部、使うかどうかって自分にしか責任ないじゃないですか。だって言ったの自分だし。こんなところで人に責任転嫁するのは流石に違うじゃないですか。だからこそ、あ〜ああいう風に言わなきゃ良かったなあも、この言葉きちんと伝わって良かったなあも、全部全部自分次第で引き出せると思うんです。だからちゃんと意識して、他人にはできるだけ綺麗な言葉を届けるべき。そして、綺麗な言葉を使っている自分に安心するべし。

 

 

 

 

言葉をうまく使いたい理由は2つ。

 

 

 

 

1つ目は、言葉とはギフトであるから。

感謝の気持ち、尊敬の気持ち、心から愛する気持ち。きちんと言葉にして、きちんと伝えれば、これ以上のギフトはないと思います。他人からの賞賛にとらわれて欲しいわけではないですが。人から頂いた言葉って、なんだかんだ心の奥底に深く長く残っているものです。1人じゃ生きていけないからこそ、他人からの些細な一言は頭の中で重要視されるものです。こんな私でも、人に与えられる言葉が存在するし、それが誰かのプラスになるかもしれない。少なくともそれが、必須なものでなくても、一瞬レベルで誰かの気持ちを晴らしてくれるものであればいいと思うんです。目の前の人に、なるだけ幸せを与えられる人がいい。幸せにできる自分でありたい。

昔から気をつけていた事としては、褒めたい所があった時と感謝の気持ちがある時は兎に角すぐ言うって事。こんな部分が好きだよ、助かったよ、ありがとう、って。それって、少なくとも他人の気分を害するものではないですよね。言わなくてもわかる関係だ、とか言いますけども。例えそうであっても、たまには想いをしっかり伝える機会を設けると、また新たな発見があるのかもしれません。貴方も、その目の前にいる人も。思ってるだけじゃ伝わんない、って言うしさ。

 

 

 

 

2つ目は、言葉とは表現手段であるから。

表現することが好きです。だから、その1つの手段としての言葉が好きです。今日の私が言う「ありがとう」は、昨日の私が言う「ありがとう」と少しばかり色味が変わっていたのかもしれません。その日限りの、その瞬間限りの、そしてその人限りの生のものだから。だから言葉が好きです。そして、言葉を使うという事は、ある種それは芸術というか、美学であると思います。小説だとか、書物の様に綺麗で人を惹きつける様な魅惑的な言葉遣いをしていたい。それが自分を表現する手段であるし、これが私だというアイデンティーの証拠にもなり得る。

大好きなことは、言葉を使うこと。言葉で表現を考えること。最早それは芸術というか、美学であると思います。それならば、その表現を少しでも有効に使っていたい。毎日思います。そのために、まずは自分の頭から表出される言葉が、少しでも綺麗で、誰かの心に届くものでありたい。

なので、紡ぐ言葉が好きと言ってもらえる事って私にとっては人格の全肯定を指すんです。貴方の世界が好きと言ってもらえてる気分になります。本人にはそういう気はないのでしょうが、受取り方もまた個々人の自由ですから。それも言葉の面白いところだと思います。

 

 

 

 

補足的にと言いますか。勿論、表情タイミングその人自身の人柄、全ての環境が整ってではないと伝えたいようには伝わりません。その中でも「言葉」をきちんとフォーカスしてもらえるような環境づくり、人間づくりをしていきたいなあと思う所存でございます。努力は1日にしてならず、とは、自分自身を作り上げる時に使ってもいいのかもしれませんね。

 

 

 

 

言葉が好きだし、言葉を使う事も使ってもらう事も好きです。だから、そうだから。言葉を綺麗に、きちんと使える人になりたいなあ、と思うのです。普段の会話然り、こういう思想の展開然り、自分の癖は治りませんが、自分のままでもっと的確秀逸な表現の仕方、使い方を学んでいきたいものです。

そして、たくさんの人にギフトを届けられる様に。自分という人を、誇り持って表現できる様になりたいのです。

 

 

 

 

夏も短いですね、何して過ごしましょうか。

 

 

 

 

本日は、これにて。

 

 

 

 

幸せな事がなるだけ沢山、悲しい事がなるだけ少ない生活が訪れます様に。

 

 

 

 

茉莉花