短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

夢は泡沫

 

 

 

 

 

暑い。暑すぎる。最近は焼けるような暑さにより、外出することさえ躊躇ってしまいますね。お久しぶりです、茉莉花です。

最近、茉莉花という名前を褒められることが増えました。有難いことですね、素直に喜んでおります。鼻が高いです。大好きなお花の和名を検索にかけるとこの名前がヒットしました。匂いも花言葉も字面まで好みとは。すごいものですね。

茉莉花という名前は偽名ですが、それでも嬉しいものですね。本名も個人的に小さい頃からずうっとお気に入りですね。こういう名前だったら良かったのに、とか生まれ変わったらこういう名前がいいなあとかは思ったことがないんですよね。あまりにもお気に入りな故、姓名判断で悪いことが書かれていても気にしないタイプです。

 

 

 

さあ、こんな雑談()は置いときまして。今日私がお話したい事に移ります。久しぶりです。ちょっと緊張しています。実は。張り切っていきましょう。

 

 

 

では。

 

 

 

 

 小さい頃の夢、おぼえていますか。

 

 

 

 

将来の事とか、これからの事とか色々と考える今日この頃。昔の私はどんな自分になりたかったのかなあと、ふと思い出した時に、小さな頃の将来の夢を思い出しました。みなさん覚えてます?因みに私、幼稚園生の私の夢を全く覚えていません。きっと花屋さんとかケーキ屋さんとか言ってたんでしょう?そう思っているそこの貴方。残念。先述の通り具体的な事は覚えていませんが、あの頃から私はひねくれた性格だったのでもっとリアルなこと言ってたと思います。まあ幼稚園の頃は置いといて、記憶がある時のことから話をしますね。

小学生の頃、確か低学年の時は、医龍というドラマをお昼の再放送で見たのをきっかけにお医者さんになりたかったんですよね。主人公がなんとも格好良くってですね。人を助けるってこういうことなんだなぁと、しみじみと感じたのを覚えています。がっつり手術とか毎回やっちゃうようなドラマだったので、普段接している街のお医者さんとはまた違うような。迫り来る命の危険に対して立ち向かっているところがわかりやすく格好良く感じたのかな。お医者さんが無理なら薬剤師になろうとも思っていた。だって血が苦手だったから(致命傷かつ思考が単純すぎて、私すごい馬鹿みたいですね)。高学年になってからは、お洋服とかデザインする事とかに興味を持ち始めて、ファッションデザイナーになりたいと思ってたな。小学校の卒業アルバムにも「人を幸せにできるようなお洋服をデザインする」とか書いたな。現物確認していないけどそんな感じでした。

中学生になってからはお世話になった先生の影響で学校教諭になりたいと思ったり、知性溢れる雰囲気に憧れてニュースキャスターになろうと思ったりしました。あと「公務員」ね。全く想像つかなかったけど、安定してそうだったから。安定って何よ、15歳の私!!わかんない癖に何を言ってたんでしょうね。苦笑いです。でも、高校生になってからは一転して裁判官になること以外考えてませんでした。あ、弁護士も一瞬だけ考えた事ありました。そういや現代社会とか公民とかをやっているうちに、法律って楽しくない?!ってふと思ったのがきっかけでした。兎に角法曹になりたくて、将来を考えられない周りを見て、やりたい事ないってしんどくないかな、したいことの一つや二つないのかなとか思ってたすごく性格の悪い人間だったな。

 

 

 

 

こんな感じで、私は今日までコツコツと将来に想いを馳せているわけですが。まあ並べてみるととっ散らかっていますね!!その時の興味関心に真っ直ぐで、結局その仕事で何をするのかとか現実的可能性とか全く考えずに言いたい放題ですね!!将来の夢を考えるのは思想の自由ですから。とてもいいと思うよ今までの自分!!

でもですね、将来の夢って歳を重ねる毎にわかりやすく大人になりますよね。なんか、あまりいい意味で使わない方の「大人になってしまった」感が。

 

 

 

 

私は現実主義者(というよりかは、大きな挑戦をして失敗したり挫折をして自分ができない人間だという事を思い知る事にすごく臆病なだけ)だったので。中学生くらいから現実的にありえるかもと思えるような、そして流石に生活には困らないだろうと思うような夢にしか、スポットライトを当てないようになっていましたね。ファッションデザイナーとか「センスないと無理じゃん、あんなの一握りしかなれないじゃん」って。お医者さんだって「べらぼうに頭良くないと無理だし、こういうのは親もお医者さんとかすっごい金持ちじゃないと無理じゃん」って。「しかも数学苦手だし文系じゃん私」って。アナウンサーとかも考えた後「東京の某有名私立大学のミスコン出れるくらいの美人じゃないと無理じゃん」とか「キラキラしてる大学生活送れるような人じゃないと受からないじゃん」とか(超偏見ごめんなさい)思うようになって「どうせ無理か」と思ってやめたし。あ、でもなぜか裁判官にはなれると思ってたんですよね。自分のスペックの中で「ここまでならギリ耐え」のラインのギリギリに裁判官をカテゴライズしてました。すごい失礼な話ですけどね、法律好きだから勉強も苦じゃないだろうと思うところもありましたね。

 

 

 

 

というところもだし、私の夢のもう1つの特徴が周りの人と被る要素が少ない事でもあって。確かに小さい頃からずっとやっていた習い事も、学校の中では私1人しかやってない事でしたし。そんな習い事も、大学に入って皆サークルとかでやっているのを見るとなんだかつまんないなあと思っちゃって。サークルには入れなかったし。周りの人と相対的に自分を見てしまう癖は健在なのですが。夢にもそういう観点が盛り込まれてるなあ、と。医者とか裁判官とかアナウンサーとか、わかりやすく専門的なものに憧れを抱きがちな所にもそれは現れていて。よく言ってましたもん、高校生の時。「何か人と違う事がしたい、皆がやろうと思ったらできる事じゃなくって専門的な資格とか取ってできる事がいい。普通が嫌。」って。今考えるとなんだかすごい自分に自信がありそうな言い方ですよね。そもそも普通とは君にとって一体なんだったんだ。自重します。実際裁判官になりたい!と思ってわかりやすく裁判官になるための学部(言い方遠回し)に入ったのは良いものの、周りに同じように法曹になりたい人がたくさんいて面白くないなあと思ったものです。公務員も良いかなと思った矢先、たくさん公務員志望がいてやっぱりいいかなあと思ったのも事実です。どこまでも自分の環境しか見ていない人の感情曲線ですよね。人は1人では生きていけないとは言いますが、自分の進路に関しても狭い環境のみを見て決めてしまっていたんだなあ、と気付かされますね。

 

 

 

 

夢を見て、夢を抱いて、そしてその都度大人になって。そうして夢は夢のまま終わりを告げてしまいます。結局、私は自分の抱いてきた夢を「現実的じゃない」「周りと同じではないか」「もっといい夢がある」そんな風に脆い理由、いや、言い訳によって正当化をすることにより、夢のままにしてしまいました。嫌な風に大人になったもんだなあ。だってもっと、少なくとも自由に夢を抱いてきた時なんかよりは、ずっとずっとつまらない思考回路になってきてしまったんだもの。傷つかないように、予防線を張りながら生きるようになったんだもの。「これくらいなら」「こんなもんか」心の中で無意識に発するようになったんだもの。こうして「夢は叶わない」という定説を自分から生み出し、そして自分という人間をもっとつまらなくするのかしら。

 

 

 

 

夢を叶えている人は、ほんの一握りのように感じる。TVで報道されるようなスポーツ選手とかアイドルさんとか、キラキラ輝く人なんてこの世で少数なんじゃないかと感じる。そんな「夢を叶えた」すごい人達を、どこか自分と切り離して考えてしまって。ああこの人達は神様か何かに選ばれたのかなあ、って。でも違うんだよね。少なくとも私は違う。「夢は叶う」って、ちゃんと夢を叶えるくらいの努力をしていなかった。夢を叶える前にその山の高さに怯えて、なんとか登る日までに仮病なりなんなり使って、「あれはもともと登りたいような山ではなかった」とか言っちゃって。そうして逃げて、そのまま正当化して何もなかったかのように次を探していただけだったんです。夢を叶える人の努力も知らないで。あんな努力自分はできないとか、しようとしたこともないのによく言えたもんですよね。

 

 

 

 

夢は必ず叶う、だなんて美徳だと思う。なんの保証があるんだ。夢は必ず叶います!って公言できる人って夢が叶った人だけでしょ。いくつか前の記事で書いた「努力は必ずは報われない」論とも全く同じことが言えると思います。100%なんてないけど、それを信じない人には夢は現実として現れる事はないですよね。でもですね、夢と努力にも大きな差はあるんだと思うんです。

努力とかだと、今抱えている案件を成功させる!とか、このコンクールのために頑張る!とか比較的スパンの短いもので判断できるし、かつ結構主観的じゃないですか。なので、ちょっと過激に書くと、自分が満足できたらそこでOKサインが出ちゃってるんですね。努力なんて目視では測れないですから。客観的に判断する資料が存在し得ないからこそ、自分の裁量にしか頼れないんですよね。

 

 

 

 

でも、夢って大抵でっかいじゃないですか。しかも将来の夢、とかいうと高確率で将来就きたい職業とか成し遂げたい目標とかになりません?短期的若しくは中期的なものではなくて、かなり長期的なものになりません??少なくとも一ヶ月後のこのコンペで優勝する!!とは言わないと思うんですね。そういう類のものは、あくまで目標であって夢を叶えるためのステップというか。そういうのって職業という肩書きだったり、目に見えるもので叶ったかどうかが判断され得るじゃないですか。だからこそ、夢って現実可能性が低い(ように見える)ものもハッキリ見えてしまうし、うまくいかないんじゃないかって思うようになる。目に見えてわかる事が多すぎて、自分の夢を諦めるだけの言い訳がたくさん揃ってしまう。自分の可能性を信じて人生最大級の賭博を仕掛けるか、それなりにそれなりの、まあ自分でも納得するかなくらいのレベル感を選択するか。私なら後者かな。だからこんな事書いているんですけども。

 

 

 

 

夢って、先ほど例に出したスポーツ選手とか芸能人とか、私の遥か昔の夢とかじゃなくてもいい。わかりやすく特別感のあるような夢でなくていいです。夢って、でっかいこと、であればいいと思います。そんなでっかいことを達成することを夢見て、生きているってなんだか、人生が煌めくと思います。少しでも人生が煌いているか、平々凡々な人生を送るか。きっと、後者を選択する人の方が多いと思います。私達は自分の手で、もしかするとその夢の所為で、その夢自体を諦める事もあったのかもしれません。少なくとも私はそうでした。でも、そんなでっかい事、夢見る事を忘れたら終わりですもんね。泡沫のまま。あの頃は子どもだったとか、あんな事ほざいていた事もあったなあとか、まるで他人事かのように。それってやっぱりすごく面白くないなあ、って。少しは大人になって、いろんなことを目にしてきて、大人ぶって夢を見ないふりするのはやめようと思いました。だって、そのほうが楽しいじゃんね。もう叶うか叶わないかなんて結果にすがりつくことはしないくらいには大人にはなったもの。その過程が大事って事と、叶うことがないわけではない事実は知ってるんだもの。自分が楽しいように、生きていけるように、夢を見たってもいいじゃないかと思うようになりました。なので、私は夢を見るし、変にあれこれ理由をつけてやめたりしないでおこうと思います。できない事もあるだろうし、簡単じゃない事もあるだろうけども、それでも好きなものは好きなんでしょう?素直になれよ、もっと。自分にこう問い続けて、夢見ていこうと思います。

 

 

 

 

これは最後の雑談ですけど、冒険系のゲームとかで「逃げる」「戦う」みたいに次のアクションを選べるところあるじゃないですか。ああいう局面に立った時みたいに、「この夢、見る?それとも見ない?」って質問が与えられた時、「見ない」って選択肢がグレーになっていて、選択できないような思考に自分がなればいいなあと思いました。

本日も、長く長くまとまりのない文章にお付き合いくださりありがとうございました。

 

 

 

 

頑張らないといけない事をやるのではなくて、頑張りたい事と「そのために」頑張らないといけない事を頑張れるような世界になったら、もっと幸せと感じられる人が増えるのかしら。

 

 

 

幸せな事がなるだけ沢山、悲しい事がなるだけ少ない生活が訪れますように。

 

 

 

 

茉莉花