短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

歪んだ鏡

 

 

 

 

 

私は今日、いったいどれだけの数の人に会って、どれだけのことを話して、どんな顔をして、どんなことを感じられたのだろうか。私は今日、いったいどれだけの人にどんな影響を与えられたのだろうか。こんなことを、よく自問したりしなかったり。

才能的にも知名度的にも多大な影響を与えられる人、所謂インフルエンサー。そんな風に言われる人なんて、全人類の0.008%くらいじゃないでしょうか。不特定多数の誰かに何かしらの影響を与えるのってすんごい難しいけれど、目の前にいる1人に対して影響を与える事さえもとんでもなく難しい。

一生のうちに、私達はたくさんの人に出会うわけじゃないですか。それから、一回すれ違っただけはい終了〜ってことが大半ではありますが、それなりの付き合いになる人とかも出てくる場合もあると思うんです。そういう付き合いの濃さはともかく、少しでも関わりのある人達に、自分と過ごしている時間に私は一体何を与えられるのかな。

 

 

 

 

「人に与えられる人になりたい」

この一年間くらい、私が事ある毎に言ってきた台詞です。この一年間の行動方針は割とこの思考から飛び出してきたものもあるんです、実は。今まである程度与えてきてもらった事実と、与えて欲しかったものを全く与えてもらえずに生きてきた事実の交錯によっての造られました。与えてもらう喜びと、与えられない苦しみを少しくらいは体験してるので。なので、何かしら人に対して与える事をすごく気にかけるようになったんですね。

さて、ずっと私が使ってきたこの「与える」という言葉、目的語がないと成立しない言葉だと思うんですけれども。一体何をあげたらいいんでしょうか。どちらかというと無形物のお話に絞ってはいますけど、でも明確に何をあげたいか、どうなって欲しいかって決まるんですかね。

 

 

 

 

そんな正解のない問いに対して、最近ものすごく身をもって体感した言葉の話をベースに、つらつらと書きたいと思います。

 

 

 

 

では。

 

 

 

 

よく、「子どもは親の鏡」とか「生徒は教師の鏡」とか言いません?自分がやってきた事の結果が、今自分が対面してる目の前の人に現れるんですよー、だから一生懸命育てましょうねーとか教えましょうねーとか、そういう類の話かと思うんですけど。実際私も言われたことがあります。少しでも教える立場とか、先輩になったことがある人は割と言われたことがあるんじゃないですかね。

 

 

 

 

でもさ、そんな鏡なんて歪みに歪みまくってるなぁと思うんです。

鏡ってなんだ。生意気ながらも教えられる側と教える側を両方体験して初めて感じました。そんな鏡に投影されたくもないし、そんな鏡見たくもない。

 

 

 

 

私達人間はどうやっても主観を消すことなんて到底不可能なので、いくら客観的に分析しただのデータを基にだの言ったとしても、貴方という自己若しくは人間というこの社会で生きている人の主観が入ってしまうわけじゃないですか。どれが良いあれが良い、こういう人になるべきだとか。世間一般的に良いと言われているものの解釈も、1人1人数nmレベルかもしれないけど、でも違う訳じゃないですか。その微妙な違いにも、すごく違和感を感じると思うんです。だからいろんな性分の人がいるはずで。その違和感を受け入れるってすごく気持ちが悪くないです?受け入れたとしてもそれは自分の意思で受け入れた訳じゃなかったら、そうせざるを得ない状況を作られてしまったら、すごく嫌じゃないです?

その、そうせざるを得ない状況って言うのが前述の「人は鏡論」だと思うんです。遺伝子レベルから育ってきた環境まで全て一致すればあり得る話かもしれないですけど。

これが良いから、あれが良いから、と一方的に告げて私を勝手に鏡にしないで。貴方の良いと感じるものだけを押し付けないで。私は私として、良いものを感じて見つけて取り込みたいのに。貴方の望む通りになるか否かで私を判断しないで欲しい。望み通りのように見えたとして、貴方のおかげと自分で言わないで。変えてあげる、だなんて言わないで。

それと同じで、目の前の人が自分と違うからって、私の理想とは違うからって、自分のやってきた事が悪かったかのように言わないで。鏡だから、映し出すものだから、ってそのまま解釈しないで。答えとマニュアルのない世界で、勝手な判断で結果を見たようなこと言わないで。どうして同じものかのようにコントロールした者勝ちなように判定するの。

 

 

 

 

だからといって人に何かを与えることを諦めるわけじゃないですし、あげない方がいいよねって話でもないです。人に与えられる人間というのは、愛を持つ人間ということですから。

与えられるという事は、人に与える程の何かを持ち合わせていると解釈できます。それはずば抜けた才能でも、自己犠牲でもなく。過度なものでなくて良いのです。見返りを求めず(決して欲のないということではありません)、与える事にきちんと喜びを感じられる人。自分のために他人に与えられる人。そういう人になりたい、という気持ちが「与える人になる」に繋がります。

ここらへんの思想は、かの有名な哲学者、エーリッヒ・フロムさんの著書達に割とすっきりと書かれています。もう一度読み直してまた言葉にしようかな。

 

 

 

 

それで。与える側が与えられる側に対しての期待や予想を押し付けない事。それが「人は鏡論」を退ける大きな点ではないかと。感謝をしてほしい、こうなってほしい、こう感じてほしい等の感情は、貰った側からしたら知ったこっちゃないです。どう受け取るかも、状況環境その人のパーソナリティ次第。そのはずなのに、相手に理想を押し付けて現実との乖離にもやもやしたり憤慨したりするのは、ただの押し付けにすぎないなぁ、って。与えた瞬間に、貴方が与えた何かはもう貴方のものではなくなるのです。それをどう受け取り、どう感じ、どう過ごしていくのかは全て貴方の生きるプロセスには組み込まれない。私達は、私達のために、他人に与えるという行為を行う気がします。

こうなってほしいなぁ、と望んではいけないということではなく、それを相手に押し付けてわかりやすい物差しで測ることが私はすごく嫌なんですよね。こう解釈すべきだ!って答えがあります?あったとしてもそれは、社会が造り出した答えでしょう?

 

 

 

 

「相手に与える」というと、英語ではgiveとなりそうですが、一方的な押し付け感があって使うのを躊躇ってしまいます。giveというより、

giftができるように。幸せになってもらいたい、喜んでもらいたい、貴方のためになりたい、そんな事を目一杯考えた気まぐれな贈り物を。

 

 

 

こんな事を言いつつ、今日も些細な事で悶々としてしまう1日でした。求める、という事は大層身勝手極まりないものですね、私。

 

 

 

 

 

幸せがなるだけ沢山、悲しみがなるだけ僅かな生活が訪れますように。

 

 

 

 

 

茉莉花