短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

もう少し早く、を何度も繰り返して

 

 

 

 

もっと早くに。

 

 

 

知らなかったものを知った時、

喜びと共に、同じ量の悲しみがやってくる。

わからないものがわかった時、

感激ともに、同じ量の後悔がやってくる。

 

 

 

少なくとも私と同じ日本語話者の皆様は

(過去現在未来をいう概念が言語上ない民族もいる

と聞いたことがあるので、同じ言語を使っている人に制限しています)

時間を流れるもののように理解していると思うのです。

機能があったから今日があり、今日があるから明日がある。

 

 

 

だからこそ、今日生まれてくれた産物に対して

「もっと早ければ」「もう少し前に」って

そんなこと、思っちゃうのではないでしょうか。

 

 

 

今日、ある人のインタビューを見ました。

心底かっこいいと思いました、羨ましくて仕方なくって。

私がここ何日かようやく言語化できた思想を

何年も前から、しかも力むことなく理解していて

それを当たり前のことのように言葉にしているのです。

 

 

 

もっと早く、もう少しだけでも早く

せめてこの人と同じような流れでそれを掴んでいたら。

そんな感じのことが脳裏に浮かびました。

 

 

 

imaginationがあるとは、時に困るものです。

ifの世界線を想像しては、理想と現実のギャップにやられてしまう。

もっともう少しきっと本当は、って

なんだかんだと文句をつけてしまうようになる。

 

 

 

 

ネガティブすぎるのですかね。

でも、きっとそう思う人、私だけじゃないですよね。

 

 

 

大丈夫。

 

 

 

きっと、今日の貴方が必要としていたからこそ

それらに今日出逢えたのでしょう。

 

 

 

神様なんて信じていないのですけど

きっと、巡り合わせってやつです。

こうやってかっこつけていますけど

そうやって自分に言い聞かせているだけです。

そう思えなくても、思えても、騙していても

きっと今日出逢えたことに何かしらの意味があって

それをわかるかわからないかは、関係ないんです。

 

 

 

今日の出逢いとほんの少しのネガティブを抱えて。

 

 

 

 

茉莉花でした。