短くて長い今日

なんでもないような事を、なんでもない事になる前に。

夏の終わり(仮)

 

 

 

 

茹だるような暑さは

まだ終わりそうにもありませんが。

 

 

 

きっと明日からは秋と呼ばれて

早すぎるように季節限定のあれこれが

少しずつ出てくるのしょう。

夏の終わり、そんな気はしません。

 

 

 

今の自分の身分的には、夏本番は

八月よりも九月、って感じです。

それがきっといつか大人になって

夏じゃなくて盆がつく休みのほうが

しっくりと馴染みのくるようになるんでしょう。

 

 

 

そんな夏の終わりに、思うこと。

 

 

 

年相応にいろんなことを経験して

年相応にいろんなことを考えてみて

これは全部「つもり」かもしれないですが

それでも、もうそれなりの歳になりました。

 

 

 

小さい頃、早く大人になりたいなあって。

子どもってなんだかとっても肩身が狭くて

全然自由じゃないし、面白くもない。

大人の話のほうがなんだか楽しそうだし

使えるお金も権限もずうっと大きい。

 

 

 

でも、子どもって本当に自由だし。

普通とか本当とかまだまだ曖昧で

見えるもの全部吸収できるんじゃないかって

それくらいに柔軟で鮮やかな気がして。

負うべき責任も少なくて済むんだし。

できるだけ長く、子どもでいたかった。

 

 

 

最近は、大人と子どものハイブリットという

ちょこっとだけ気持ち悪いような身分でいられて

でもこれも、別に良いとこどりってことでもなく

相手の都合のいいタイミングで勝手に

身分をスイッチさせられている気分になります。

これもこれで、不自由でつまらないと思う。

 

 

 

結局私は、何になりたいのだろうか。

いろんな可能性を考えて、想像をしてみて

でもいまいち解像度が上がらないまま

それなら参考にと他の人生を垣間見たところで

誰にでも勝てるものが見つからずに劣等感増大。

これなら勝てる!と自信ありげに言えるものが

どこを探しても見つからない気がしてしまって

じゃあそれっぽい道を進んでいればいいような

普通って多分こういうことだろうなって

そこそこの人生でいいやあって思ってしまう。

 

 

 

知らないうちに随分と視力が落ちていました。

見える世界が単調になってしまっていました。

それじゃあ、本当につまらなくて仕方ない。

 

 

 

本当に大切にしたい価値観だとか

大事にしたい指針も大好きだを言えることも

今の自分が抱えることができる最大の量を

実はしっかり持っているんじゃないか。

 

 

 

私は何者になりたいのでもなくて

私自身のままで、いたいんだって

どこかのブログにももう書きました。

本当に豊かな人は与えられる人ではなく

与えることができる人だってことは

ちゃんと本で何回も繰り返し読みました。

自分の人生は心の持ちよう次第で

どうにでも転がるんだってことは

幾度となく経験してきたことです。

 

 

 

ちゃんと、ちゃんと重ねてきたはず。

年相応の、自分相応の考え方を

価値観を、哲学を、思想をきちんと

重ねてきたはずなんだと信じています。

 

 

 

それがまだまだ点と点のまま散らばって

小さくてたまに見えなくなるだけ。

古い考え方のまま生き続ける訳ではなく

でもちゃんと今の持っている思想をそのまま

少しずつでも色濃くしていければ、

きっとそれが、理想の自分であるのでは。

 

 

 

今の自分の好きなところは

好きなものを好きって言えることです。

今日食べたレモンタルトも

とっても好きで、とっても大切にしたいです。

こういう気持ち、本当に大事だと思うから

相手の好きなものも否定しないでおきたい。

こういうのもきっと昔のブログで

ちょこっと書いた記憶があるなあ。

 

 

 

こういうところ、もう少し色を濃くして

解像度を上げて、忘れないように。

そうしていくことがこの秋からの課題です。

 

 

 

逃げるように悩んでみたり

馬鹿みたいに求めてみたり

大量の過去を悔やんでみたり。

そういう自分は、この夏に

残していこうと思います。

 

 

 

明日から、多分秋です。

かっこ書きで、仮がつくでしょうけど。

そんなグレーで曖昧な秋の始まりを

できるだけ味わい尽くして生きましょう。

 

 

 

茉莉花でした。